倒立
電線好き。電柱も好き。
たんぶらで見つけた
また写真 - げどーんより。
「写真はどうしてそんなに作品であろうとするのか。」
基本的に写真を見る側、解釈する側がそういう風に見るから
作品に見えるとは思うんだけど。
たとえばネットショップの商品画像は見る側にとってはただの画像だけど
それを撮影するブツ撮り専門のプロカメラマンは
それを作品だと思っているだろう。
ヌード写真もただのエロ画像だと思うか、芸術だと思うかは
撮った人間じゃなくてそれを見る人間が判断している。
写真がなんでも作品臭く見えたりするのは見てる人間が
そういう見かたをしているのではないかと。
結局言いたいことはそれだけだったり。オチなし。
ちょっと、というか大分話ずれてるかもしれないけど。
以前、ネットで膨大な量のデジタル写真を発表していた
某写真家のサイトをちょっと気に入って見ていたりしていた。
その量と質はまさしくデジタルカメラとウェブでなければできない
芸術だったわけなんだけど、その写真家は結局それでも
最終的に現実世界でプリントした写真で個展を開いたり、
紙媒体の写真集をつくったりしていた。
その流れを見て、結局新しいことやっててもそうやって
型にはまっていってしまうのかと思ってちょっと残念だった。
(写真集は実はちょっと欲しかったが)
で、また話は転回してこっちもたんぶらで見つけたテキストkuorsawa.htmlより。
フレームの中の世界を構築するっていうときに、フレームっていうのは一枚の絵であるっていう考えが基本にあると思うんですが、僕は全然違うんですね。フレームは絵ではない。現実を仕方なく限定して切り取ったものだと思っていますから。やはりその外、フレームの外にはたくさんのものがあるわけですから。申し訳ない、ここだけです、すいませんっていう思いが常にありますね。その中で完結しようなんていうことはさらさら思ってませんね。
こっちは映画の話ですが、スチル(静止画)の世界からみても興味深い。
やっぱりね、いい写真は被写体を通してフレームの
外まで想像できてしまうような写真だと思う。
その想像のフレームがどんどん広がって最終的に撮影者までもが
透けて見えるような写真。それが「とてもいい写真」なんじゃないかと。
そこでふと自分の写真を見てみたら
ばっちりカメラのフレームに囚われていましたとさ。orz
フレームを乗り越えていかないと。
あ、自分の写真を作品だと思ったことはあんまりないです。
自分ではそんなもんですね。
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