Tuesday, October 28, 2008

片思いは遠慮がちに。

花一輪
運命

命を運んでくる、と書いて『運命』
この花はどういう運命でここに美しく咲いているのか。

Twitterが危ない。
何が危ないって中毒率というか、異様な常駐率。
日々モニタとにらめっこして過ごしている独り言好きな人間にとって
ついったー体験はかなりな快感。
mixiのエコーとは見た目は似ていれども(というかmixiがコピーした)
感覚的に全く違うものだと理解した。
というわけでエコーにもあんまり書かなくなると思います。
近況というか状況についてはTwitter/konishirokuを見てください。
研究室にいる時間帯は頻繁に更新されてます。
修羅場ってたらわからないけど。

感覚的には
TwitterとTumblrさえあればいくらでも
オンライン上で暮らしていけそうだなぁ。
という感じ。
時間を自由に使える学生故の感覚なのかもしれませんが。
しかしついったーの社会人率は意外に高い感じで
そんなに暇あるのかなーと思ったり思わなかったり。

研究のほうは論文の枠組みがおおむね決まって
書けるところから書いていこうかという感じ。
あとはメソッドの検証とか(必要となる)拡張的な部分の実装とテストか。
先は長い。

Friday, October 17, 2008

「過去も未来も存在せず、あるのは現在と言う瞬間だけだ」

Crash cans
有機物たち

タイトルはトルストイの言葉から。
この言葉通りであれば写真は常に現在という瞬間を捉え
存在しない過去へと葬っていく葬儀屋のようなものか。

視覚 - Wikipediaによれば
中心窩から20度程度の領域が中心視野、それ以外の領域が周辺視野で
周辺視野では色覚が失われるらしい。
なんとなくカラーで見えてる気になっているだけで基本的に脳内補完
しているのだろう。うまい具合にできているものです。
さらに、暗所視における光受容器(桿体)は1種類であるので
暗い所を見るときにも色覚は存在しないらしい。
夜景を白黒で撮るというのは人間の視覚的に見ても自然な行為
ということですか。
勝手に脳が色を補完するからこそ、白黒写真は白黒写真として
成立するのか。
ここらへんの視覚のはたらきは写真にとって重大な影響を及ぼす
領域であるのでもう少し突っ込んだ知識を得たいところです。

視覚関係でWikipediaめぐりをしていてふと思い出したんですけど
網膜を英語で言うと retina。
この名を持つカメラたちが1930年代~60年代にかけてコダックから
発売されています。"網膜"という名のカメラ。
僕の網膜は何かを残すことができるだろうか。

明後日は結婚式で大阪です。トンボ帰りになりそうな予感。
来週は輪講という名の発表とミーティングのコンボで忙殺される予定。
というか今からやっておかないと到底間に合わない。

そろそろ修論の枠組み、Outlineを構築していくようだ。
頭の中ではぼんやりと形は見えている。出力してみて
先生に意見を求めよう。

Friday, October 10, 2008

自分できれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界中でもね。

Old couple
距離

更新頻度低下。
シャシンブログのほうは比較的マメに更新してます。
写真もテキストもエコーとかついったーとかたんぶらにポストして
しまっていたりしますが。
たまには140文字以上の言葉を自分の脳みそからひねり出すことも必要ですよねと。

タイトルはスナフキン語録から。
「そうだな。なんでも自分のものにして、
 もって帰ろうとすると、むずかしいものなんだよ。
 ぼくは、見るだけにしてるんだ。そして、たちさるときには、
 それを頭の中へしまっておくのさ。ぼくはそれで、
 かばんを持ち歩くよりも、ずっと楽しいね。」

自分の写真観がここらへんに似ている気がする。

ムーミンて一回も見たことないんですよね実は。見てみたい。
youtubeにあるかな?

携帯の通話側のスピーカーが壊れてまともに電話できない。
一応変換コネクタつけてイヤホンを付ければ会話はできます。
それ以外の機能は全く問題なし。メールもウェブも。
音楽ですらも後ろ側についたステレオスピーカーから聞こえるというのに
通話だけができないという困った状況。
今日か明日にauショップに行ってきます。
お金かかったら嫌だなぁ。まだ半年ちょいなのに。

明日明後日と大学学園祭。オープンラボで研究室のほうは
慌ただしかったり。僕は何にもしてませんけどね。

Thursday, October 2, 2008

写真はどうしてそんなに作品であろうとするのか

Pole and wire
倒立

電線好き。電柱も好き。

たんぶらで見つけた
また写真 - げどーんより。
「写真はどうしてそんなに作品であろうとするのか。」

基本的に写真を見る側、解釈する側がそういう風に見るから
作品に見えるとは思うんだけど。
たとえばネットショップの商品画像は見る側にとってはただの画像だけど
それを撮影するブツ撮り専門のプロカメラマンは
それを作品だと思っているだろう。
ヌード写真もただのエロ画像だと思うか、芸術だと思うかは
撮った人間じゃなくてそれを見る人間が判断している。
写真がなんでも作品臭く見えたりするのは見てる人間が
そういう見かたをしているのではないかと。

結局言いたいことはそれだけだったり。オチなし。

ちょっと、というか大分話ずれてるかもしれないけど。
以前、ネットで膨大な量のデジタル写真を発表していた
某写真家のサイトをちょっと気に入って見ていたりしていた。
その量と質はまさしくデジタルカメラとウェブでなければできない
芸術だったわけなんだけど、その写真家は結局それでも
最終的に現実世界でプリントした写真で個展を開いたり、
紙媒体の写真集をつくったりしていた。
その流れを見て、結局新しいことやっててもそうやって
型にはまっていってしまうのかと思ってちょっと残念だった。
(写真集は実はちょっと欲しかったが)

で、また話は転回してこっちもたんぶらで見つけたテキストkuorsawa.htmlより。
フレームの中の世界を構築するっていうときに、フレームっていうのは一枚の絵であるっていう考えが基本にあると思うんですが、僕は全然違うんですね。フレームは絵ではない。現実を仕方なく限定して切り取ったものだと思っていますから。やはりその外、フレームの外にはたくさんのものがあるわけですから。申し訳ない、ここだけです、すいませんっていう思いが常にありますね。その中で完結しようなんていうことはさらさら思ってませんね。

こっちは映画の話ですが、スチル(静止画)の世界からみても興味深い。
やっぱりね、いい写真は被写体を通してフレームの
外まで想像できてしまうような写真だと思う。
その想像のフレームがどんどん広がって最終的に撮影者までもが
透けて見えるような写真。それが「とてもいい写真」なんじゃないかと。

そこでふと自分の写真を見てみたら
ばっちりカメラのフレームに囚われていましたとさ。orz
フレームを乗り越えていかないと。
あ、自分の写真を作品だと思ったことはあんまりないです。
自分ではそんなもんですね。